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 第196回『まちむら興し塾』 2023年6月21日

        
  
  コメンテーター 株式会社あそび 野本郁彦さんの講演

    テーマ 『「江戸文化を支えてきた「そば」』


    
第7回 インバウンド向け『そば打ち体験企画』実施に向けて

目次 

  まえがき 

  『江戸文化を支えてきた「そば」』

  【そば(そば切り)の発達(そばの歴史)】

  ▼ 蕎麦切りが江戸に

    ④ 高遠そば 


    ⑤ 醤油の普及

  ▼ 江戸の庶民に親しまれた蕎麦

    ⑥ 蒸籠そば

    《 夜鷹そば売り屋台 》

     〇 麺の形状になったのは江戸時代から

  ⑦ 江戸ってどこ

    江戸の都市構造

   ● 江戸の町人地の私有化

   ● 江戸で″町人″といえば

 ⑨ 蕎麦屋の誕生

 ■ 江戸時代の海の交通

 資料

 ① 蕎麦の花粉が発見された場所

 ② 石臼技術の伝来

 ③ 蕎麦切り発祥地

   1一木曽大桑村定勝寺 須原宿

   2-中山道本山宿(長野県塩尻市)

   3甲斐国天目山栖雲寺(山梨県甲州市)

   4-筑前国松山承天寺(福岡市博多区)

 《 そば関連の話題 》

   ◎  江戸患い(脚気)

   ◎  そばとお寺

   ◎ 蕎麦とお酒  〆の蕎麦

   ◎ 年越し蕎麦 

 インバウンド向けのそば打ち体験事業の議論

  1.資金調達 

  2.そば打ち体験の市場価格

  3.インセンティブ 

  次回のテーマ

 

屋台を担いで蕎麦を売り歩く、夜蕎麦売りの浮世絵から。

 歌川国貞の「今世斗計十二時 寅ノ刻」です


寅ノ刻とは深夜3時から5時ごろのこと

 
  
本日の参加者

長坂、早生君、千代田さん、野本さん、平野さん、植村さん、樋口さん

 
 まえがき
 
  今回は、野本さんの『江戸文化を支えてきた「そば」』のテーマで講演
 
  をしていただき、そばの伝来の歴史・遺跡や、その背景、更に江戸で広
 
  まった「そば文化」、加えて、江戸の庶民の暮らしなど幅広く、多岐に
 
  渡っての丁寧な説明をしていただき、始めて聞く内容が多く、皆さん熱
 
  心に耳を傾けていました。

  ● 樋口さんコメント  

    殆どが知らなかった事ばかり、何歳になっても学ぶ事は大切な

   のだなぁと痛感しました。


  続いて、インバウンド向け『そば打ち体験』の商品化向けて、第7

  回目

  収支計画・備品・資金調達・オリジナリティ、販売促進案などの検

  討をしました。


  『江戸文化を支えてきた「そば」』
 コメンテーター 株式会社あそび 野本 郁彦 さん
 ● 野本さんのプロフィール
   
   東京都世田谷区在住。

   高輪蕎麦茶房のオーナー柿沢さんのロック繋がりのお友だちで、

   そば打ち指導も出来るかなりユニークな方。

   実は、そばも詳しいですがロックはもっともっと詳しいです!


   併せて、IT関連のプログラムニング等にも精通されています。

 
 
 
  【そば(そば切り)の発達(そばの歴史)】
  ● 蕎麦掻きから蕎麦切りへ


  ① そばの伝来縄文時代 

    蕎麦の実をそのままお粥もしくはお米のように炊いた

  ② 中国から石臼技術の伝来鎌倉時代

     蕎麦を粉に蕎麦掻き(室町時代1468年8代将軍義政の時代)

  ③  蕎麦切りの発祥戦国時代(1574.年天正3年木曽定勝寺) 

 ▼ 蕎麦切りが江戸に
   ④ 高遠そば 

   保科正之(家光の異母弟)信渡高遠藩~会津藩第4代将軍家綱の補佐   

   正之が会津転封の際に一緒に連れて来た蕎麦打ち職人から続く伝統

   の蕎麦は、正之が初めて藩主となった高遠藩に由来して「高遠そば」

   と呼ばれ、福島県会津地方に根ざしてきました


    ※醤油が庶民に広がるのは元禄時代以降のため江戸時代初期には

    味噌と大根のおろし汁で食べた。


 
 高遠そぱ(焼き味噌に辛み大根のおろし汁)
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 ⑤ 醤油の普及 

 ▼ 醤油と鰹節の喬麦汁(醤油が庶民に)元禄時代頃(1700年頃)
 
 ● 江戸のそばつゆ
 
    寛永20年(1643)以前の江戸時代初期に書かれたとされる『料

   理物語』は、当時のそばつゆについて次のように記している。   

  汁は、うどん同前。其上大こんの汁くはへ吉。 

   はながつほ、おろし、あさつきの類、又からし、わさびもくはえよし。

  このうどんの汁とは、同書のうどんの説明で出てくる、「煮貫」また

  は「垂れ味噌」でつくるつゆである。垂れ味噌というのは、味噌に水

  を加えて煮詰め、布袋に入れて漉した(垂らした)もので、室町時代

  の記録にも出てくる。

  火を入れない場合は「生垂れ」と呼んだ。煮貫は生垂れに削った鰹節

   を入れて煮詰め、漉したものである。

   現在、そばのつけつゆを「タレ」ということがあるが、これは垂れ

   味噌を略した名残ともいわれる。

   一世紀余り下って寛廷4年(1751)脱稿の『蕎麦全書』には、
  
   二通りのつゆの製法が書かれている。

   ひとつは、垂れ味噌と酒、削った鰹節を合わせて煮詰めて漉し、塩、

   溜醤油で味をととのえたもので、これを温めて用いる。

   関西の淡口醤油の始まりは寛文6年(1666)、関東の濃口醤油

   は元禄10年(1697)だが、同書には「今麺店家の汁、此法の

   類ひなるべし」とあるから、当時の江戸のそば屋はほぼこのような

   味噌味のつゆを使っていたのだろう。

   江戸のそば屋のつゆがいつ頃から醤油味になったのかははっきりし

   ていないが、明和8年(1771)の『誹風柳多留』には、そば屋

   の出前持ちが自店のつゆを自慢する様を詠んだ次の川柳がある。

   「山十に土佐を遣ふとかつぎいひ」

   「山十」は下り醤油の銘柄、土佐は鰹節のことだが、いずれも江戸

   周辺の安価な地回りものではないから、高級店のそばつゆを皮肉っ

   たのかもしれない。

   つまり、この時期のそば屋では、伝統の味噌味のつゆと、地回り

   (または自家製)の醤油を使ったつゆとが併存していたとも推定で

   きるわけだ。

    さらに時代が下って、天保・嘉永期(1830~54)の江戸風

   俗を記録した『守貞謾稿』ではどうか。同書はそば屋の品書きなど

   は詳細に述べているのに、残念ながら、つゆについては直接触れて

   いない。
   
    しかし、江戸の料理の味つけとして、鰹節のだしに味醂または砂

   糖を加え、醤油で塩味をつけるとしている。しかも、味醂に関して

   は「諸食物、醤油ト加之煮ル」とあるだけだが、砂糖はそば屋で使

   うこと甚だしいとまで書いている。

   したがって、鰹節のだしに濃口醤油、味醂、砂糖という「江戸のそ

   ばつゆ」は、遅くも文化文政時代(1804~30)頃には完成さ

   れていたと考えられる。

 
 

  下り醤油(関西薄口醤油江戸に下った)から濃い口醤油の製造に

  大日本物産協会「下総国醤油造之図」

  三代歌川広重(1842-4894)

 ▼ 下り醤油

   西日本でつくられて江戸に運ばれてきた醤油。

   本格的に醤油が生産されるようになる江戸時代。

   1726年の「下り醤油」は約76%を占めていたという。もとも

   と醤油は和歌山から千葉県の銚子に渡ったとされ、西日本のものの

   方が品質がよいとされていた。

   そして、次第に千葉県を中心とした関東の醤油の品質が向上し、

   1821年の醤油問屋の上申書によると125万樽のうち下り醤油

   はわずか2万樽と多くが関東産になっている。

  当時の醤油は溜醤油に近いものと推測されており、ヒゲタ醤油の第五

   代の田中玄蕃が小麦を原料に使ったとの記録が残っている。

   現在の濃口醤油の製造法であり、江戸の人が好む醤油を開発して品

   質と生産量を高めていった背景もある。

 

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 ▼ 江戸の庶民に親しまれた蕎麦
   蕎麦は江戸のファストフード元禄時代に庶民の食べ物に   
  ⑥ 蒸籠そば
   
  繋ぎをいれた蕎麦は元禄時代以降

  ご当地そばが残りながらも、小麦の栽培も進み、次第に小麦粉をつな

  ぎに使ったそばも日本各地に広がっていきました。

   そば粉のみを使った「十割」やそば粉と小麦粉の比率が8対2の

  「二八」、7対3の「三七」、5対5の「半々」が誕生しました。

  そば粉10に対して小麦粉2を混ぜる「外八」など多様な割合のそば

  があり、日本人のそばへの関心の高さがうかがえます。

  蒸籠(蒸した蕎麦)十割蕎麦は切れやすいため蒸していた。

  ※ 現在で「もり蕎麦」が蒸籠に出てくるのはその頃の名残り
 
 
 蒸籠そば(蒸した蕎麦)
 
 江戸東京博物館の常設展示室には、蕎麦屋の屋台の復元
  《 夜鷹そば売り屋台 》
  出典 
 日本麺類業団体連合会 / 全国麺類生活衛生同業組合連合会TOKYO SOBA
 
 
 屋台を担いで蕎麦を売り歩く、夜蕎麦売りの浮世絵から。

 歌川国貞の「今世斗計十二時 寅ノ刻」です。


  屋台に風鈴が2つぶら下げられているところにご注目ください。

 これは夜蕎麦売りの中でも、風鈴蕎麦と呼ばれるもの。

   寅ノ刻とは深夜3時から5時ごろのこと。
 

 こんな深夜まで、蕎麦を売り歩いている夜蕎麦売りの様子です。



 明暦3年(1657)の振袖火事は、江戸府内のほぼ六割を焼け野原に

 したが、その復興のために大量の労働者が江戸に流入した。

 当然、外食需要が急速に高まり市中に煮売り(振売り)が急増するが、

 その煮売りの中から、夜中に屋台でそばを売り歩く夜そば売りも生まれた。

 もっとも、最初の頃の主力商品はそばではなくうどんで、貞享3年

 (1686)の町触には、「饂飩蕎麦切其外何ニ不寄、火を持ちあるき

  商売仕候儀一切無用ニ可仕候」とある。

 幕府は火事対策として夜の煮売りを禁止していたが、禁令を無視して夜

 中から明け方近くまで売り歩く煮売りが多かったようだ。ただし、夜売

 りの期間は、陰暦9月9日の重陽から3月3日の雛の節句までと限られ

 ていたという。

  江戸市中のそば屋の数が増え始めるのは18世紀半ば以降のことで、夜

 の麺類の煮売りがそば中心に変わるのは安永(1772~81)頃のこ

 ととされる。

 しかし、それよりも早く元文(1736~41)頃から、夜そば売りが

 「夜鷹そば」と呼ばれるようになる。

  夜鷹とは、夜間に道端で客の袖を引いた街娼のことだ。

 夜そば売りが夜鷹そばと呼ばれた理由は不明だが、客に夜鷹が多かった

 からとか、そばの値段一〇文が夜鷹の代金と同じだったから、あるいは

 夜鷹と同様に夜になると現れて商売したからなど諸説がある。

 売り物は温かいぶっかけ専門だった。

  宝暦(1751~64)頃になると、夜鷹そばに対抗して「風鈴そば」

 という新手の夜そば売りが現れる。風鈴という名は、屋台の屋根に風鈴

 を下げていたからで、この風鈴を調子よく鳴らして客に知らせた。

当時の夏の風物詩であった風鈴売りを真似たものらしいが、本来は夏の響

 きの風鈴の音を寒い季節に使ったところに新鮮味があった。

 そばの値段は一二文である。

  風鈴そばは夜鷹そばと比べてはるかに清潔だったため、たちまち人気に

 なったといわれる。夜鷹そばの不潔さについては、当の夜鷹そば屋でさ

 え腹が減っても食べなかったという笑い話が残されているほどだ。

 その後、夜鷹そばも風鈴をつけ、清潔が売り物のはずだった風鈴そばも

  不潔になったことから両者の区別はつかなくなり、夜そば売りは夜鷹そ

  ば(風鈴をつけている)の名で総称されるようになる。

  ちなみに、風鈴そばは種もの(しっぽく)を売り物にした。

  しっぽくとはいっても、せいぜいチクワか麩をのせただけだったよう

  だが、どの時期からのことだったのかははっきりしない。

 しかし文化(1804~18)頃になると、ネギと油揚げをのせたなん

  ばん、油揚げがメインの信田、海苔をのせた花巻、そうめんを温めた

  にゅうめんなども売っていたようだ。

  天保・嘉永期(1830~54)の記録である『守貞謾稿』には、

  「一椀価十六文、他食を加へたる者は二十四文、三十二文等、也」

  と記している。

 
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 〇 麺の形状になったのは江戸時代から
 
  全国製麺協同組合連合会では、そば粉を30%以上、小麦粉は70%

  以下の割合で混ぜ、練ってそば切りしたものを日本そばと呼んでいます。

  そばは麺状に成形されているのをイメージされます。

  しかし、そばは餅状の「そばがき」のようなかたちで食されていた期

  間が長いのです。

  そばが麺状に形成されるまでや、日本各地にご当地そばが登場する流

  れは以下のとおりです。

    1574(天正2)年の定勝寺文書『振舞ソハキリ』に「そば切り」

    に関する記述があり、麵状のそばが確認されている最も古い資料

    です。

   それ以前は、現代の「そばがき」や「そばもち」のように、そばを

    練って餅状にしたものがそばとされていました。

    そば自体の歴史は古いですが、麺状にして食べるようになった

    のはその長い歴史の中では最近といえるでしょう。

   1734(享保19)年に刊行された『本朝世事談綺』の巻一

    にそば切りの項目があります。

     これより古い資料にはそば切りに関する記述が確認されてい

    ないことから、そば切りの登場を証明する資料とされています。

    そば粉のみ作る生粉打ちが主流だったため、麺状に加工するの

    が難しかったことが、餅状のそばの歴史が長い理由の1つです。

   1624~1644年、寛永年間に朝鮮の僧侶によって小麦粉を

    そばのつなぎとして用いる成形方法が、南都東大寺に伝わります。

  # 高価な小麦粉の代用品に各地の特色が表れた

   当時は小麦が貴重で高価だったことから、小麦粉をつなぎとして

    用いる成形方法はすぐには普及しませんでした。

     そばは米よりも栽培され歴史が長く、卵や自然薯、ワラビ粉、

    大豆粉、ヤマゴボウの葉など、各地の作物と結びついたそばは、

    日本を代表する食文化の1つです。

   
  新潟県のへぎそばは、海藻の布海苔がつなぎとして使われて

    いることで知られています。

     瘦せた土地でも栽培できるそばと、各地の手に入りやすい作

    物を組み合わせることで、ご当地そばが誕生したのです。

 
 
 へぎそば
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  ⑦ 江戸ってどこ
 
 出典 イーオーネット
  江戸の都市構造
 
   江戸は、8代将軍徳川吉宗の享保年間(1716~1736)の

   頃には、武家、寺社と町人を合わせて人口100万人(町人人口

   :約50万人)を超えた。

   江戸の町は1657年に起こる江戸市街の大半を焼いた明暦の大

   火が契機となり、幕府は江戸の町を防災都市へと構造的に転換さ

   せ、主に武士が居住する「武家地」、町人が住む「町人地」の区

   切りがはっきりするようになる。

  城下町においては、それぞれ身分に応じて武家地、寺社地、町人地

   の三つに配分された。


   この時代、江戸市内の士地の占有率は、60%が武家の屋敷地で、

  20%が町家、15%が寺で、残りの5%が神社であった。

 明暦大火後の都市改造によって江戸は人口・面積ともに膨張し、とり

  わけ町方人口の急激な増加と町人地の拡大が進んだ。

  町人地には、武家の生活を支えるためにあらゆる種類の商人・職人

  (手工業者)や日用(日雇い労働者)らが集まった。

  なお住居は町人の7割が裏店(長屋)の暮らしたったと言われている。

   町人地の人口密度は非常に高く、1平方キロ当たりに5万人もの

   人が住んでいた。(現在の東京23区の人口密度は1万4千人)

 ● 江戸の町人地の私有化
  
   江戸の土地は基本的に幕府が所有していたが、武家地などとは異

   なり、町人地では土地の私有が認められ、沽券地(こけんち)の

   ように売買も行なわれていた土地も合った。沽券地は、「沽券亅

   と呼ばれる土地売買証文が用意されている土地のことを指した.

    この私有化された土地は地主が所有していたが.一般的には地主

   はその土地には住まず、家守(いえもり)がその土地に住み、同時

   に土地などの管理もしていた。

   私有化された土地は、家守の他に、裕福な商人たちも借りていた。

 ● 江戸の町人地

  江戸の町人地は町方(まちかた)といい、18世紀前半に50万人

   以上が暮らしていたとされ、その多くは商工業で生計を立てていた。

   町人地には、家屋を持つ家持(いえもち)のほか、土地だけを借り

  ている者(地狩-じがり)、借家住まいのもの(店借)、商家などに

  住み込む(奉公人)、江戸に流入した貧農や職人などが裏長屋を借り

  て済む店子(たなこ=借家人)らがいた。

  当時、地所を持つ家持ち町民は呉服町、塩町、録冶町、大工町とい

  うように職業別に居住した。町人地を統括するは街奉行であったが、

  実際は町年寄り、町名主と呼ばれる町役人が、町奉行と地主・家持ち

  の間に立って町政全般を行っていた。

   町名主はお触れの伝達、訴訟の取次ぎ、喧嘩の仲裁、落し物、捨て

  子、自殺などの処理にあたり、それを補佐する家守(大家)は、家

  屋(裏長屋)の修理や借家人の世話も仕事とし、家賃の徴収もおこ

  なった。

  ※:江戸町人の人口には、町奉行支配下の町方人口と寺社奉行支配下

    の寺社門前町人、人口がある。享保時代の江戸町人の数は、町奉

   行支配が約50万、寺社奉行支配が5万、計約55万人であり、こ

   の数字は若干の上下変動はあるものの、幕末まであまり大きく変わ

   らなかった。…「徳川吉宗と江戸の改革」大石慎三郎、講談社

 ● 江戸で″町人″といえば


   土地持ちの地主層で、庶民は正確には″町人″ではなかった。

   江戸庶民を代表する職人たちの多くは″店借″と呼ばれる長屋住ま

   いの借家人で、所得税も住民税も払わなかったから″町人″ではない。

    彼らは「九尺二間」と呼ばれる裏長屋に住んでいた。

    職人には大工や左官などの「出職」と日用品や工芸品製作の

   「居職」があった。

   では、誰が″町人″だったかというと、主に表通りに店を構える商家

  がそれに当たった。

  商家の経営者は地主であって家持(いえもち)である。

  所有地の間口に応じて町入用(ちようにゅうよう)という費用を負担し

  て町の運営にあたる有力者だけが町人だったのである。

  いわゆる″大家″は家守(やもり)とも呼ばれ、地主から委任され、

  家屋敷の管理・維持や地代・店賃徴収の責任を負う者である。ほかに

  表に面した土地を借り、自分で店舗を建築して営業する小規模な商家

  ・地借店持(じがりだなもち)もいたが、これらも厳密に言えば町人で

  はなかった。

 ●町人の階級の差
  ○ 武士の町として開発された江戸では、町人は総人口の約半数を占

   めながら、総面積の20%の土地に居住させられていた。

   江戸期の町人はいくつかの階級に分けられていて、例えば江戸では、

   ”町年寄¨-¨町名主¨-¨地主・家持¨-¨家主¨-¨店(地借

   人)¨となる。

   町年寄は、お上と町人を結ぶ中間的な立場であり、市政にも参加す

   るほど実力のある町人であった。

    長屋の住人たちは、このランクの最下層である店借人で、一般には

   店子(たなこ)といわれる。

    店子は正式な町人とは認めてもらえず、町内での公用出費がない

   かわりに町人としての権利らしきものもほとんど持てなかった人た

   ちである。

 
 一般庶民の棲まい長屋
 
 
  町人の台所※⑧
 
 ・棟割長屋は、割長屋の屋根の棟の下にさらに壁を作り、背中合わせに

  部屋を設けたタイプで、広さが四畳半の座敷と土間と台所という平屋

  建ての「九尺二間」が一般的なつくりだった。

  つまり、間口が九尺(約2.7m)で、奥行きは二間(約3.6m)だ

  から、現代でいう六畳間と同じ程度の広さである。 

  そのうち土間が一畳半分ぐらいあるから、居住スペースは四畳半

  程度、住むには少し窮屈であった。

  また、採光は玄関の一方向のみで、風通しもよくなかった。

  そのため貧しい小作人や職人などが住むことが多かった。長屋の店

  賃(たなちん=家賃)は、当時真面目に働けば23日で稼げる程度

  の安い金額であった。

  ・長屋ではトイレ(これを江戸では惣後架=そうごうか、京阪では惣

   雪隠=そうせっちん、という)と水場である井戸、ごみ捨て場、物

  干し場などは共同で使用した。 

 井戸といっても、神田上水などから引かれた水の取出し口で、住民は

  桶にそこの水をため、自分の部屋に運んだ。

  また、路地の真ん中には板で蓋をしたどぶ(排水溝)が通っていた。

  路地の幅はたかがか3~4尺、1m程度という。

 ・表通りに面した「表長屋」は、比較的裕福な小商人などが住んでおり、

  日当たりも良いうえ、八畳と四畳の部屋に土間があるなど間取りも

  広く、四畳の部屋で小間物や荒物などを商う住人もいた。

 ⑨ 蕎麦屋の誕生
 
   初めての飲食店浅草「奈良茶飯」明暦の大火(1657年)の後

   1667年日本橋瀬戸物町「信濃屋」浅草「伊勢屋」最初の蕎麦屋

   1706年京橋「長寿庵」

   1718年雑司ヶ谷「藪」

   1748年藁研堀「大坂屋砂婦」

   1753年浅草「尾張屋」

   1789年麻布永坂「更科」


 
 神田 やぶそば
 
 虎ノ門 砂場 大阪から東京へ出店
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 ■ 江戸時代の海の交通
  ▼ 菱垣廻船区盆江戸に入る酒の7~9割は灘の酒「下り酒」
  ● 菱垣廻船(ひがきかいせん)
    出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』

    江戸時代に、大坂などの上方江戸の消費地を結んだ廻船貨物船

   である。

   当時、存在した同様の貨物船の樽廻船と並び称される。

   菱垣とは、両舷に設けられた垣立(かきだつ)と呼ばれる舷墻に装

   飾として木製の菱組格子を組んだ事に由来する。

 
 復元船「浪華丸」

  江戸時代の1619年元和5年)に和泉国の商人が紀州の富田浦

 の廻船を雇って江戸へ回航させたのが創始で、多種多様な日常の生活物

 資を運んだ。

  1619年(元和5年)に大坂北浜の泉谷平右衛門が250石を積ん

  だ廻船を借り、日用品を江戸に運んだことが始まり。

  1624年寛永元年)には、菱垣廻船問屋が5軒完成し、都市部へ

  の輸送が活発化した。[1]

  1730年享保15年)、菱垣廻船問屋に属していた酒問屋が、菱

  垣廻船の使用を停止し新たに酒を主な荷物とする樽廻船での輸送を開

  始した。

 輸送時間で勝る樽廻船は、次第に酒以外の荷も運ぶようになり、菱垣廻

 船と樽廻船は競合した。そのため1770年明和7年)には積荷の内

 容による両者の分離が行われ、米・糠などの7品は菱垣廻船と樽廻船

 両方、酒は樽廻船、他は菱垣廻船で運ぶという仕法が定められた。

 しかし樽廻船への積荷はやまず、菱垣廻船は次第に劣勢となっていった。

 水野忠邦天保の改革の一環である株仲間解散で菱垣は撤廃される。

 ● 樽廻船
   出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
  
 樽廻船(たるかいせん)とは、日本江戸時代に、主に上方から江戸に

 酒荷を輸送するために用いられた廻船貨物船)である。

 菱垣廻船(ひがきかいせん)と並び称される。

 酒樽積廻船、酒樽廻船、樽船とも呼ばれる。

 概要[編集

 伊丹(兵庫県伊丹市)、池田(大阪府池田市)、(兵庫県神戸市

 西宮市)などで生産された「下り酒」を大坂、西宮あたりから江戸

 で搬送した。江戸時代中期にそれまでの菱垣廻船から大坂の廻船問屋が

 樽廻船による輸送をはじめ、東海道本線が全通する明治の中期まで用

 いられた。

 1694年元禄7年)に不正や海難事故防止のために大坂で二十四組

 問屋、江戸で十組問屋がそれぞれ結成され、菱垣廻船は両問屋に所属す

 ることが義務付けられた。

 菱垣廻船において酒樽は下積荷物であったが、海難の際に破棄される上

 積荷物に対する補償は、問屋が共同で負う義務があった。

 また、腐敗しやすい酒は輸送時間の短縮が重要だったが、多様な荷を乗

 せる菱垣廻船は出帆するまでに長い日数を必要とした。

 これらに不満を持つ酒問屋は1730年享保15年)に脱退し、酒専

 用の樽廻船問屋を結成し、専用船による独自の運営をはじめた。

  船体の構造は菱垣廻船とほぼ同じであるが、菱垣の無い弁才船と呼ばれ

 る和船の一種で、多少深さを増して船倉を広くした。

 単一の商品(清酒)のみを取り扱うこととし、積み込みの合理化を図る

 ことによって輸送時間の短縮を実現した。

 樽廻船の迅速輸送が評価されると、余積として酒以外の荷物も安い運賃

 で輸送するようになり、菱垣廻船と競合していった。

 競合を避けるため、1770年明和7年)には酒と米・糠などの7品

 に限り樽廻船での輸送を認め、それ以外は菱垣廻船でのみ輸送を行うと

 する積荷協定が結ばれる。

 しかし協定は守られず、また天保の改革の一環である株仲間解散もあり、

 樽廻船問屋が優勢となった。

  樽廻船の根拠地は灘五郷にあり、その系統に属して明治以後の海運界に

 活躍したのは、西宮の辰馬と八馬である。辰馬は同姓の者が多いが、海

 運業者として沿革が古く、明治時代に活躍したのは、銘酒「東自慢」の

 醸造元である辰馬半右衛門であり、大正の成金時代に活躍したのが銘酒

 「白鷹」の醸造元である辰馬本家辰馬吉左衛門である

 どちらも酒造業の傍ら、海運業に従事した

  八馬兼助は以前より酒造用米穀の売買・運送と酒類の運送を業とした

  る者で最初より純然たる船主であり、明治に入って大和船より西洋形

  帆船、西洋形帆船より汽船と巧みに産業革命の波に乗って社外船主の

  雄となった

  そのほかに樽廻船系の海運業者としてが摂州灘酒家興業会社がある

  ● 河村 瑞賢 かわむら ずいけん
    出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』

    江戸時代初期の豪商政商として全国各地の航路開拓や治水工事を

   指揮し、晩年には武士の身分を得た


 ■ 航路開拓[編集

   それまで幕府代官所などが管轄する年貢米奥州から江戸へ輸送する

  廻米には、本州沿いの海運を利用し、危険な犬吠埼沖通過を避け、

  利根川河口の銚子で川船に積み換えて江戸へ運ぶ内川江戸廻りの航路

  が使われていた。

  幕命により瑞賢は、飯岡時代の教訓から、寛文11年(1671年

  に阿武隈川河口の荒浜から本州沿いに南下、房総半島を迂回し

  伊豆半島下田へ入り、西南風を待って江戸に廻米し、新たな航路である

  外海江戸廻りの東廻り航路を開いた。

  さらに翌年には、奥羽山脈を隔てた最上川水運を利用し、河口の

  酒田
で海船に積み換えて日本海沿岸から瀬戸内海を廻り、紀伊半島

  を迂回して伊豆半島の下田に至り、西南風を待って江戸に廻米し、

  西廻海運を確立した。

 また、途中の寄港地を定めて入港税免除や水先案内船の設置も行うこ

  とで海運の発展に尽力した。

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 資料
 ① 蕎麦の花粉が発見された場所
   島根県飯石群頓原町 一万年前蕎麦花粉

  高知県高岡郡佐川町 九千三百年前

  北海道 五千年前

 ② 石臼技術の伝来
   水磨の図

  宋から帰国した弁円は「水磨」と言う水車による製粉技術を持ち帰り、

  うどん・そばの作り方を日本に広めたことから承天寺はうどん・そば

  発祥の地とされています。

  また、謝国明が大晦日、貧しい人々にそばをふるまったことが、年越

  しそばの始まりと言われています。

 水磨の図
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  ③ 蕎麦切り発祥地 
   1一木曽大桑村定勝寺 須原宿
 
 「番匠作事日記亅 天正3年2月3日(1575年)

 ◎ 定勝寺文書から見るそば切りとその時代背景

 平成5年に遡るが、長野郷土史研究会の機関誌、『長野』第167号

 (1993年1月)の「特集 信濃そば」の誌上に郷土史家・関保男氏

 の「信州そば史雑考」が掲載された。


  天正二年(1574)二月十日に木曽の定勝寺では仏殿等の修理を始

  めた。その「番匠作事日記」中の「同(作事之)振舞同音信衆」に、

  「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」および「振舞ソハキリ 金永」

  という記述がある。

  金永という人物はそば切りを振舞ったのである。

  ・・・これによると、木曽では天正年間にそば切りが作られていたこ

  とが明らかである。

   『この史料は現在のところ信濃ばかりでなく、そば切りに関するわ

  が国最古の史料である。』とあり、初めて定勝寺文書が世に出ること

  になった。

  「須原宿」の北隣の「上松宿」に「越前屋」という老舗蕎麦屋があり、

  創業が「定勝寺」の記録の50年後、寛永元年(1624)というこ

  とです。

  さらに、「上松宿」の北隣の「福島宿」に創業300余年といわれ

  る「くるまや本店」という老舗蕎麦屋があることもその理由です。

 
 定勝寺山門
 
 2-中山道本山宿(長野県塩尻市)

   本山の名物そば切りは、宝永3年の「風俗文選」(1706年発刊)

  に、松尾芭蕉の門下の森川許六により「そば切りといっぱ もと信濃

  の国本山宿より出て あまねく国々にもてはやされける。」

  と記述されており、中山道本山宿(69次の32番目)から記述して

  いることは、木曽路で発祥し、甲州街道を経由して江戸に伝わってい

  ったと推測することができます。

こうした歴史を大切にし、そば店「本山そばの里」は、各家庭に伝わる

 技術を踏襲し、歴史あるそば切りの復活を願う有志により、平成6年に

 本山宿に建設され、多くの皆様に支えられ令和元年で創業以来25周年

 を迎えている。

 そば切り発祥の地といわれるが、現在そばが食べられるのは

  「本山そばの里」だけである。

 
 
 中山道本山宿標識
 
 3甲斐国天目山栖雲寺(山梨県甲州市)随筆集「塩尻」に起筆
  
  江戸時代中期の国学者で尾張藩士・天野信景が元禄10年

  (1697年)頃に起筆した随筆集『塩尻』に蕎麦切り発祥

   の地は甲州であると記され、地元ではそれが
天目山とされ

   ることから境内には「蕎麦切発祥の地」碑が立っています
 

 
 栖雲寺蕎麦切発祥の地碑
 
 4-筑前国松山承天寺(福岡市博多区)
  
 鎌倉時代に博多の承天寺で振る舞われた「世直しそば」が由来とされる

 説もあります。

 江戸時代には「運そば」や「年取りそば」の名で全国に広まり、「年越

 しそば」の名が定着したのは明治以降とされています。

古くから救荒作物として日本人を支え、各地の作物と結びつくことで文化

 にも定着したそばは、日本食を代表する存在です。

  承天寺境内には、「饂飩、蕎麦発祥之地」と言う石碑があります。

 この石碑の周辺にはこの時期「原料」となる本物のそばが栽培されて

 いて、そばの木とか、花とか、実を見て、楽しむことが出来ます。

 小さなそば畑ですが、とくに印象深く、「饂飩、蕎麦発祥之地」を忘

 れられないものにしてくれています。

 
 饂飩、蕎麦発祥之地の石碑
 
 承天寺そば畑
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 《 そば関連の話題 》
  ◎  江戸患い(脚気)

    参勤交代で江戸勤めの武士は白米の普及のせいで、ビタミンB1が

    欠乏し脚気になり、具合が悪くなったが地元に帰り蕎麦を食べるこ

    と治ったとの説がある。

    蕎麦にはビタミンB1,B2が多く含まれる。

  脚気で亡くなった将軍

  十代家治、十三代家定、十四代家重

 ◎ 蕎麦とお寺(仏教)
   仏教と一緒に蕎麦を食する文化が伝来
    
   そもそも蕎麦は天台宗の祖、最澄上人が805年に中国(唐)から持

   ち帰ったのが始まりで、真言宗でも僧侶は修行中、五穀(稲、麦、

   あわ、きび、豆)を断つほか、火食、肉食も断たなければならなか

   ったことから、五穀に含まれず、火を通さなくてもお腹をこわさず、

   粉を水で溶いて食べることができる蕎麦は大変重宝されました。

   このように蕎麦は、仏教とはとても深い関係にあったのです。

  〇 門前蕎麦深大寺○○庵

 ◎ 蕎麦とお酒  〆の蕎麦
 
   江戸時代からそばとお酒は一緒に楽しまれていたとされており、

   当時はそば屋がお酒を飲む場所として多くの庶民に利用されてい

   ました。

    簡単な肴でお酒を1本楽しみ、出し巻き卵などの肴でお酒をもう

    1
本楽しんで最後に〆そばを食べて帰宅するといった楽しみ方が

    一般的だったと言われています。

 ◎ 蕎麦屋の一品   
   天ぬき(天ぷらそばの蕎麦抜き)、板わさ、焼き海苔、玉子焼き
 
 ◎ 年越し蕎麦 
    
  救荒作物として栽培されたそばは、縁起物としても扱われます。

  非日常を指す「ハレの日」に食べられるようになるのです。

  そばは細く長く伸びることから「寿命を延ばし、家運を伸ばす」とさ

  れ、切れやすいことから「一年の苦労や厄災を断ち切る」と願いを込

  め、年越しそばが広まりました。

 
 年越し蕎麦
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 インバウンド向けのそば打ち体験事業の議論

  収支計画・備品・資金調達・オリジナリティ、販売促進などの議論を

 しました。


 課題 誰がやるのか

 学生は学業、バイト、インターシップ、 プライベート生活、社会人は

 それぞれの会社、組織の立場で、いつもながら、行き着くところは、誰

 がやるのかということになってしまいます。

  1.資金調達 
    1)クラウドファンディングの活用


クラウドフアンディングの現状(秀明大学千代田調べ)

 【協議】どのクラウドフアンディングが親和性かあるか?

 
種別 内容 NPOで出来そうなこと
 購入型      ファッション・グルメ
 
 ・ クーポン
 そぱ焼酎・そば枌を使

 ったお菓子
  キッチンカー・飲食店の 
 
 開業・取画の公開 
 
 海外の小学校の創立  
 寄付型    動物愛護活動・被災地支援

 ・伝統芸能の継承

 駅広告の推しへのバース

 デーメッセージ
 収益の一部を勣物の

 保護団体へ寄付
ファンド型 IT系や最新テクノロジー等 0
ふるさと納税型  自治体の特産品・旅行券 0
不動産投資型  商業施吸 0
 
 ■ そば打ち体験の市場価格
   
  5.食体験の相場(秀明大学植村調べ)

    【協議】そぱ打ちだけで勝負できるのか?

  1)AirKitchen エアキッチンサイト例 
体験種別 体験内容 場所 値段
 うどん作り体験
 お出汁、うどん、天ぷら、

 卵焼き

北千住 10,000
 お寿司屋での

 体験

 お寿司、お刺身、抹茶、

 デザート、味噌汁、卵焼き

中目黒 19,500
 お菓子作り

 茶道体験
 豆大福、茶道体験、デザート 目黒 10,000
 ラーメン体験
 おだし、煮卵.餃子.

 生麺作り、チャーシュー

品川 12,000
 そば打ち体験  
 そば打ち、天ぷら、デザート 
 ※無料送迎

成田 10,000

 味嘖ラーメン

 作り体験
  生麺作り、スープ

 ※希望者には日本語教室
新宿 11,900
 そば打ち体験  そば打ち 阿佐ヶ谷 13,200

 そば打ち天ぷら

 づくり
 そぱ打ち、天ぷら、デザート 世田谷 7,500
そば打ち体験  そば打ち 谷中(東京) 5,000
たい焼き作り体験  たい焼きづくリ
 ※ 具材持ち込み司
浅草 8,500
パン作り体験  パン作り 蒲田 3,000
                        平均価格 10,055
  2)一般 体験内容例 価格
体験種別 体験内容 場所 料金
茶道・和菓子作り体験  茶道体験、和菓子作り体験 千代田区 2,580
絵巻寿可体験  
 絵巻寿可作り

 ※外国人観光客には細巻き

 体験プラス

横浜 5,500
そば打ち体験
 そば打ち体体験

 ※別途550円で天ぷら付き

群馬県
利根郡
1,500
そば打ち体験  
 そば打ち体験

 ※大将のお話が聞ける
台東区 4,000
そば打ち体験
 そば打ち体験、はっぴの着用

 ※食後にケーキとお茶のサービス

自由が丘 4,000
バン作り体験  バン作り体験 西日暮里 2,500
ピザ作り体験  ピザ作り体験

 ※具材の持参OK
千葉県印西市 1,980
 ソーセージ&バター
 
 作り体験

 ソーセージとバター作り体験

 自家製パン付き

栃木県那須 1,800
ビール造り体験  
 ビール造り体験

 ※オリジナルラペル付き

茨城県那珂市 3,600
平均価格 3,051
 
 上記の資料は学生会員が調べた、クラウドファンディングと、類似体験

 コンテンツの一覧。
 3.インセンティブ 
 
   作る楽しみ食べる楽しみを追求した体験コンテンツはあるものの、

   体験後にまた体験したい、また家に帰ってから楽しい思い出に残る

   ような、インセンティブのコンテンツが不足している事に気が付き

   ました。

   例として、野本さんの次の一言がヒントになります。

   「外国人観光客がそば打ちをした後の、道具や器を購入のお手伝い

   までの、サポートができたらオリジナリティが出せるのでは?」

 


  早速翌日、蕎麦道具を購入した、事業パートナー合羽橋漆器の竹むら

  さんに相談、そば打ち体験したお客様が道具や食器購入を希望した場

  合の、連携について快諾を頂きました。

  次回のテーマ

  今回、学生が作成してくれた資料をことに、下記の具体的内容を検討

  する。

  ・収支計画

  ・備品

  ・資金調達

  ・オリジナリティ

  ・販売促進
 

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 まちむら興し塾参加の皆さん
 
  
本日の参加者

長坂、早生君、千代田さん、野本さん、平野さん、植村さん、樋口さん
講演中 
   
 講師役 野本さん  大黒柱 理事長 樋口さん
 
 資料を作成してくれた
 千代田さん 植村さん
 千代田さん、植村さん、樋口さん
   
平野さん  2年 千代田さん
   
2年 植村さん  4年 早生君
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 『まちむら興し塾』勉強会会場 高輪蕎麦茶房 ミポーズ
品川駅から 約10分 閑静な住宅街にある佇まい 
 
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